尾張徳川家 × 三輪神社

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寛文8年(1668)尾張徳川家が京都の蓮華王院(三十三間堂)で威信をかけて競った、通し矢の修練場(三十三間堂を模した長廊)矢場が当神社の境内に造られこの界隈を「矢場町」と呼ぶのも、ここに矢場があったことに由来します。徳川時代には尾張八代藩主宗勝公を始め歴代藩主の崇敬が厚く供御米五斗(およそ九十リットル)が奉献され、明治時代になり尾張藩十六代藩主義宜公(1864年~1871年)が合祀される。

矢場跡

寛文8年(1668)三輪神社境域に京都の蓮華王院の長廊にまねて矢場を創建せられた。
文化4年(1807)此地所二反九畝二一歩と建物を併せ、金152両にて御払いになり、星野勘左衛門預となる。

通し矢

三十三間堂の西側の軒下を南から北へ120メートルの距離を一昼夜(24時間)の間に通した矢の数を競うものである。

勘左衛門は、京の三十三間堂に於て寛文2年(1662)5月28日、通し矢6666本を、寛文9年(1669)5月2日、通し矢8000本を射て、当時天下に其の名を知られた事は、現代の人も亦良く知る所である。弟子に赤穂義士早水藤左江衛門がある。
京の三十三間堂の通し矢は、慶長11年(1606)正月19日、尾州清州の士浅岡平兵衛通し矢51本を射ったのに始まる。
「愛知の史跡と文化財」昭和三十七年一月二十九日発行より